寄せられたメッセージ


令和元年の例大祭で心に刻んだこと(HP管理人)

  元号が令和と改まって最初の例大祭に参加しました。

  目の前の御堂のうちに、かつて松井石根大将がおられたのかと思うと、不思議な感動に身が包まれます。 やがて厳かなうちに読経が始まり、「松井石根霊位、東條英機霊位、土居原賢二霊位、武藤章霊位......」と、七士の名前が読み上げられました。 ついで支那事変、大東亜戦争の戦没者というように順を追って供養の言葉が続きます。

  読経を拝聴するうち、巣鴨プリズン内の刑場へと向かう七士の姿が心に浮かびます。 絞首刑台に向かう直前、七士は松井石根大将の音頭で万歳三唱をされたと云います。

  「天皇陛下万歳」
  「大日本帝国万歳」

  昭和二十三年の暮れも押し詰まった十二月二十二日の深夜、 薄暗い巣鴨プリズンの中で国家鎮護の人柱となって亡くなられた方々の万歳三唱の声が、七十年の時を超えて陰々と胸に迫ってくるのを感じます。

  「我が事は終わった。後事は他の人に託すしかない」

  おそらく、七士の方々は万歳三唱の後に、こう思われたことでしょう。 では、後事を託されたはずの我々は、その自覚を持ったことが、これまでに一度でもあるのか?

  もちろん、これは他人事のように云うのではありません。 「我々」の中には日本人として生を受けた私もいます。私に、その自覚があったか?

  思えば、還暦をとうに過ぎたこの歳に至るまで、なんという無自覚と不義理の中で時を過ごしてきたのかと思います。 人生の回り道は浮き世の常とは言いながら、後事を託された一人であるはずの私には、その自覚が無さ過ぎた。もっと人生の早い段階で、この興亜観音の地に立つべきではなかったのか。

  そうすれば、我々の祖父母が生きた証しを、もっと自分の目で見つめることができたはずなのに。

  日本ほど世界に貢献した国家はないのに、日本ほど世界から誤解されている国はない、と云われます。インド独立運動の指導者の一人であるヘランボ・ラル・グプタ(Heramba Lal Gupta)は、昭和三十九(1964)年、東京裁判を評して、こう述べたと伝わっています。

「極東軍事裁判、即ち東京裁判は、21世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるであろう。 そして、第二回東京裁判が実現する。その頃はアジアも世界も良識をとりもどし、すべてが公正にして真理の法の前に平等に裁かれる。 その時こそ東亜積年の侵略者である欧米列強の英雄たちは、こぞって重刑に処せられ、かつて東京裁判で重罪をこうむった日本人、 なかんずくA級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり、神として祀られる日がくるであろう。 また、そのようになるべきであろう。」(「世界がさばく東京裁判」p248)

  グプタがいう「第二回東京裁判の実現」の責務は、21世紀を生きている我々が負っているはず。

  「皆様に着せられた濡れ衣は、我々の世代が必ず晴らします」

  その言葉を心に刻みつつ、熱海を後にしました。
 

1984年、日本青年三千人訪中行事に参加した際のHP管理人。 北京市内にて。

生まれた時代が少し違えば、このような私も支那事変を戦っていたのだろうか。

令和元年5月25日
HP管理人・萩野谷敏明(はぎのや としあき)


怨親平等の精神で執り行われた慰霊祭(阿羅健一)

  11月13日、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑で戦没者慰霊の法要が執り行われました。法要は神道だけでなく仏教各宗派との十六団体によるもので、僧侶は拝殿で般若心経を唱えたあと、本殿で玉串を捧げました。宗派を超え神社で法要するには珍しいことで、代表の一人叡南覚範師はこう述べております。

  「戦いが終われば、敵も味方も関係ない。同じように慰霊するのが平和につながる。『怨親平等』の思いで法要した」

  この精神は興亜観音とまったく同じです。

  興亜観音を建立した松井石根大将は「興亜観音縁起」に「観音菩薩の像を建立し此の功徳を以て永く怨親平等に回向し」と書いています。

  松井大将は上海や南京で斃れた兵士たちを怨親平等の精神で慰霊し、銅板に刻印された「興亜観音縁起」はいまでも興亜観音の境内に掲げられています。

  怨親平等はいつの時代にも共通しているのです。

平成30年11月15日
阿羅健一


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